フィールドワーク

謝る爺さん

 エチオピアでの車の移動にはパンクはつきものである。
 舗装された道路といえども、地方へ行く道の道路はところどころ穴ぼこが空いているのは当たり前だし、砂利道になると今度は何が落ちているかわからない。通算で10日ぐらい運転手付のレンタカー(ランドクルーザー)を借りると、まあ最低でも2,3回はパンクの修理に遭遇する。タイヤ自体もすり切れてツルツルであったり、あちこち穴が空いていたりなんてことも多いので、道が悪いだけのせいではないのであるが、それにしてもよくパンクする 今回もアルバミンチからソッド、サウラ、バスケトと行く予定で走り出した車は、アルバミンチーソッド間の予想外の道の悪さに時間をロスしながら、昼頃ソッドで給油した。ここから先は道がアスファルトでなくなり、また地方へ行くと給油が難しいので、車の上には予備のポリタンク2杯分のガソリンを縛り付けていくのである。そのサウラに行く途中に1度目のパンクがあった。その時はまだ余裕だったわけである。ところがサウラを通り過ぎて山道に入ったところで2度目のパンクがあった。サウラから先はさらに道が悪くなり、砂利道というよりゴツゴツとした石が一面転がっている道である。その時時計は午後3時を指していた。ところが若い運転手のタディヨスが突然交換するタイヤがなくなったと言い出した。何のことはないアジスからアルバミンチに来る時に一度パンクしたらしく、あろうことかそのタイヤをアルバミンチで修理してこなかったと言うのである。つまりこれで3つタイヤがダメになったわけである。
 そんな山の中で取り残されたら大ごとである。同乗のインフォーマントであるフィクレにサウラへ向かうトラックが運良くやってきたので、タイヤ2本持って乗り込んでもらい、タディヨスと2人で彼の帰りを待つことにした。
 ところでタディヨスは若くて陽気な男だった。両親はすでに亡くなっていて、弟と妹のために働いている27歳である。そういう不幸をまるで感じさせない明るさが彼にはあった。前日もアルバミンチのツーリストホテルのレストランで食事をしたのであるが、まあよく食べる食べる。若槻千夏似のウェイトレスにちょっかいを出しながら、人の3倍は食べていた。おまけに残った残飯もビニール袋に入れろと千夏に要求し、こっちが囓り残した肉の切れ端まで詰めこませていた。
 さて午後3時から待てど暮らせど全く戻ってこない。その日はちょうどサウラのマーケットの日で、周辺から一日がかりで歩いてやってきているのであるが、ゾロゾロとマーケットから戻ってくる連中が途方に暮れる我々に向かって話しかけてくる。事情を話すと同情してくれたり、近隣のホテル事情などを教えてくれる人もいる。まあこういう旅もそれはそれでおもしろい。
 すると年配の爺さんが熱心に現地語で話しかけてきた。「エチオピアの道が悪いせいで、あなたにこんな思いをさせて申し訳ない」と言っていると、誰かが通訳してくれた。そんなことで謝ってくれるところがエチオピア人らしい。(つづく)

ドクター

 さてフィクレが戻ってきたのは夕方6時を過ぎていた。
 マーケット日だったせいで、どこもかしこも人だらけで手間取ったのと、地方では車の修理が思うようにいかないことが原因である。2本持っていったタイヤは結局1本だけ修理してもらうのが精一杯だったらしい。
 今日のうちにバスケトまで行くのは無理なので、サウラに戻るか次の町ブルキに行くかで議論になった。距離的にはサウラまで戻るには車で20分で、ブルキまでは5分ぐらいだと言う。ただし、町の規模は明らかにサウラの方が大きく、ブルキにちゃんとしたホテルがあるかさえ定かでなかった。しかし待っている時、通りすがりの男性から教えてもらったブルキのホテル情報によると、最近新しい綺麗なホテルができて、シャワーも出るとのことである。辺りも薄暗くなってきているので、猶予はなくその男性のことばに賭けてみることにした 日没はあっという間に訪れる。ブルキに着いた時はもう肉眼では前が見えないぐらい暗くなっていた。さてその新しいホテルを探したのであるが、ようやく見つかったそのホテルは何と「タッジベット」だった。
 「タッジ」とはハチミツ酒のことで、綺麗なオレンジ色のエチオピア独自のローカル酒である。当然糖分を多く含んでいるので、二日酔いに絶対になる。そんなお酒を出すお店が泊まれる施設を持っているだけのものが「タッジベット」である。そういうところにはたいてい娼婦が待ちかまえていたりする。3人が顔を合わせて「これはダメだ」ということになり、急いでサウラに戻ることにした。もう完全に辺りは真っ暗であった。  さて、走り出して10分ぐらいであろうか大きな「パーン」という音がした。この日3度目のパンクである。万事休す。陽気なタディヨスまでガックリしてしまった。再びフィクレが向こうから来たトラックにタイヤと一緒に乗り込み、トラックは闇夜に走り去って行った。残された2人は停電用に持っていったロウソクをつけて車の前と後に置き、車の中でいつ戻るともしれない帰りを待つことになった。  どのくらい時間が経ったであろうか、2人とも寝ていたら、向こうから小型のバスがやってきた。時計を見たらすでに10時を回っていた。フィクレが10人ぐらいの怪しい男達を引き連れて、バスをチャーターして戻ってきたのである。400birrもしたそうであるが、サウラのホテルもキープしてくれていた。
 これでようやく助かったと思ったのも束の間、修理して持ってきたタイヤが車にはまらないことが判明した。ボルトの数は6本と5本の違いである。どうやらレンタカー会社が勝手に車を改造していたのである。これで本当に万事休すである。  もう一度サウラに戻って5本のタイヤを探してきてくれと頼むと今度は600birrと値段がつり上がった。600birrと言えば、地方の平均的な1ヶ月の稼ぎに匹敵する。タイヤの修理だけだったらせいぜい20birrである。フィクレは高いからダメだと言う。すると、この怪しい連中のボスとおぼしき男性は、「おい、ドクターどうする?俺たちは帰ってしまうよ」とドスのきいた低い声でさらに脅す。朝までそこにいても次の日も同じような困難が予想される。ここはサウラまで戻って、今回の予定をすべてキャンセルするのが最善であると思い、フィクレに言ったところ、彼も同意見だった。このタイヤでさらにひどくなる道をバスケト、さらにラハまで行くのは無理であった。仕方なく、この盗人集団の言い値を飲んで、再び彼らはフィクレを連れて去っていった。(さらにつづく)

アジス・タイヤ

 もう朝まで彼らは戻ってこないだろうと半分諦めて、再び眠りについた。
 深夜2時再び車の音に目を覚ました。彼らが戻ってきたのである。大きなロウソクの火は半分ぐらいなくなり、液体が流れ出していた。今度こそタイヤはしっかりとはまったようである。タディヨス運転の車はサウラに向かって走り出した。深夜ライトをつけると、照らされた道路は本当に岩のようにゴツゴツとした道であることを再認識させられ、3度もパンクしているだけにいつパンクするかもわからない状況は変わらない。またエチオピアの道にはガードレールなんかない。1つ運転を間違えると谷底に落ちてしまうのである。だから基本的に車は日中しか運転しない。心の中で何度も「タディヨスがんばれ!」と祈っていた。20分ぐらい経ち、ようやく道は平坦になり灯りが少し見えてきた。サウラである。ホテルはあまり綺麗なところではなかった。つまりノミがいそうであった。タディヨスとフィクレは部屋に入ったが、おそらくシャワーもないので、わざわざノミ付ベッドで寝るという危険を冒すよりこのまま寝袋で車の中で朝まで寝ることにした。時計は3時を過ぎていた。長い長い一日はこれでようやく終わった。
 さて早朝このままぶっ飛ばしてアジスまで一気に戻るつもりでいた。10時間も走ればおそらく着くだろうし、ソッドまで戻れば道はアスファルトになるので、このタイヤでも何とかなると思われた。ところがタディヨスが前日600birrで交換したタイヤをチェックし始めて、どこか不具合があると言い出した。いい加減なタイヤを連中は探してきたのである。そのままそのタイヤを外して修理屋に行ってしまった。それから2時間経っても彼は戻ってこない。エチオピアのケータイはここ1年ぐらいで一気に全国に拡がったのであるが、運悪くこのサウラ一帯は昨年9月にサービスがスタートしてわずか1ヶ月で不通になっていた。仕方がないのでフィクレに固定電話を探してアジスにいる友人に電話してきてくれと頼んだのであるが、これがまた話し中なのか何なのか全く繋がらないらしい。結局アジスの友人に連絡できないまま、タディヨスがタイヤを転がして戻ってきた。時計は9時半ぐらいだった 話を聞くと空気が少し漏れていると言う。耳を澄ますと確かにスーという音がかすかに聞こえる。ただしサウラではこれ以上修理できないらしい。タディヨスは行けるところまでこのタイヤで行って、空気が抜けてきたらどこかで空気ポンプで入れればいいと提案した。ソッドまでは車で3時間で、砂利道とはいえ平坦である。このままサウラに居続けてもダメと言うことで、タディヨスの提案を受け入れ、車はソッドに向かって走り出した。行きとは違い、時速100キロ近い猛スピードで車は走る。タディヨスは時々運転席のドアを開けながらタイヤの状態を確認していた。すると30分ぐらい走ったあたりにある小さな村で車は止まった。下りてビックリ、そのタイヤは見事に空気が抜けていた。
 さて空気ポンプを探すのであるが、村人たちはそんなものないと言う。通り過ぎる車に聞いてもない。電話はと言うと、電話もないと言う。今度は炎天下に取り残された。これならサウラの方がまだマシであった。車の上に積んでいたポリタンクから漏れだしたガソリンのせいで車がバックライトのプラスチックが溶けてしまい、車はかなりダメージを受けていた。それを見たタディヨスは完全に放心状態で、木陰に座り込み、彼にもう何か解決できる能力は残っていなかった。
 選択肢は限られていた。一つ目はタディヨスをそこに残して通り過ぎる車を止めて、フィクレと2人で載せてもらうように交渉することである。二つ目はタイヤをソッドまで貸してもらうことである。しかしこれは車が改造されているので可能性は低い。三つ目は両方断られたら、電話の繋がるところからアジスの友人に電話してもらうことである。ところが車がなかなかやってこない。これが観光地に向かう道路であれば頻繁に車が通るのであるが、やってくる車は少なく、来ても人が既にいっぱい載っているか、荷物を搬送しているトラックで、我々を乗せるスペースなどどこにもない車ばかりである。そこでさらに2時間以上待たされた。こっちも相当いらつき、もう人任せにしていられない。
 その時一台の車がやってきた。幸い荷台には何も積んでいなかった。必死に頼んでみた。そしたらついにO.K.が出た。急いで車からトランクとリュックと鞄を取り出し、その荷台に飛び乗った。20本ぐらいあったミネラルウォーターやら調査用に買い込んだ食料の多くをそのまま車に残し、車はタディヨスを残して走り出した。別れ際タディヨスに100birr紙幣を一枚渡してやるのがせいぜいだった。
 2時間ぐらい炎天下を車は走った。顔には日焼け止めを塗っていたので助かったが、右手は真っ赤に腫れ上がった。その荷台には新しいタイヤが1つ置いてあった。見ると「addis tire」と書かれていた。エチオピア製である。アムハラ語でaddisは「新しい」という意味である。

蚤の町

 日本の地名でも、「何でこんな名前なん?」と思うような変な地名がたまにあるけど、エチオピアでも同じである。
 たとえば首都アジスアベバはアムハラ語で「新しい花」という名前である。しかし、オロモにとってはそこは「フィンフィンネ」だった。フィンフィンネとはオロモ語で「温泉」を意味する。どっちがオリジナルかと言えば、オロモ名に決まっている。「新しい花」なんてのは、日本で言えば新興住宅地などによくつけられる「○○ヶ丘」の類である。地名の由来も何もあったものではない。最近は「南セントレア市」みたいなカタカナが流行りであるが、頭が悪いとしか言いようがない。東急の田園都市線の「たまプラーザ」もどこか間が抜けているし、大阪の「千里ニュータウン」はもうニュータウンでも何でもない。
 ところでアジスアベバから西にジンマロードを少し行ったところに「タフキ」という町がある。ここを車で通過する時この名前を知り、同乗していた友人のオロモ人と大笑いした。何のことはない、オロモ語で「蚤」の意味であるからである。ちなみにアムハラ語だったら「コニチャ」となる。エチオピアでは最重要単語である。
 彼に「なぜこんな名前なのか?」と聞いたけど、彼も笑って「蚤がいっぱいいるからでは?」と答えるだけだった。ふだんから蚤には痛い目に遭っているだけに、間違ってもこんな痒そうな「蚤の町」にだけは立ち寄りたくない。車は全速力で通過した。

北斗七星の傷跡

 エチオピアのインフレは相当ひどい。
 2006年12月に出たロンリープラネットに記載されているホテルの値段から約20%以上上がっている。首都アジスで調査前にゆっくりしていると予算が底をついてしまうことになりかねない。エチオピアの友人に値段を事前に調べてもらっていたとはいえ、やっぱり一泊60ドルもするホテルに何泊もするわけにはいかない。
 仕方がないので少し妥協して一泊35ドルのゲストハウスに泊まることにした。昔の小学校の教室を小さくしたようなシングルルームだった。シャワーは一応自慢のソーラーシステムがあるということで少し期待したのであるが、あまり効率が良くないらしく、チョロチョロと出口からお湯が漏れる程度であった。まあそれでもお湯が出るだけマシである 朝食も部屋まで運んでくれるし、味もまあまあおいしい。場所もボレ通りにあって、とっても便利な一等地である。これは良かったと思ったのも束の間、天敵ノミに初日に4つやられ、次の日の夜ついに大被害が出てしまった。左脇腹から脇の下にかけて、15箇所以上いっぺんにやられてしまった。出発前にユニクロで買った就寝用のトレーナーの色を黒にするか白にするか悩んだ末、エチオピアは埃っぽいから黒を選択したのが凶と出て、ノミの発見が遅れてしまった。早朝その黒いトレーナーをベッドの白いシーツの上でふったら、にっくきノミが落ちてきた。
 すぐさまアラットキロ近くに新しくできたホテルに移動した。こちらは60ドルと思えないぐらい、広くて綺麗な部屋だった。25ドルの差なのであるが、これが雲泥の差であった というわけで今回のエチオピア調査は出鼻をくじかれてしまった。その綺麗なホテルでもノミの痒さが3日間続き、痒みが治まった後も見事な北斗七星(実際はもっと数が多いけど)の傷跡が今もくっきり残っている。

セカンドハンド

 いつもエチオピアの調査では西南部のアルバミンチを拠点にして、そこからさらに移動するのであるが、今回は研究協力者の大学院生が2月に調査をするので、初めて西部のジンマに予備調査に行ってみた。
 首都アジスからジンマに伸びる道はジンマロードと言われ、最近できたばかりのとても綺麗なアスファルトの道である。ケチで有名な民族グラゲの拠点を通過し、ギベ川のあたりまで来ると、さすが水力発電をしているだけあって、荒涼とした砂漠地帯に乾季であるにも関わらず赤茶けたギベ川が悠々と流れている。ただし、その一帯は日が暮れると盗賊が出るので有名らしく、夜は危険極まりないらしい。
 さてジンマロードというのであるから、ジンマまで綺麗なアスファルトの道が続いているのかと思いきや、そうではなかった。途中からアスファルトではなくなり、おまけに道路工事中ということで、トラックやらバスやらが向こうからもこっちからもやってきて、なかなか前に進めない。こういうときは強引なドライバーの勝ちである。我々の車の若い運転手は技術が未熟で、スピードが全く出ない。新しいランドクルーザーに抜かれるのは当然で、遅いはずのバスなんかにもどんどん抜かれる始末である。
 前のトラックが動かなくなり、仕方なくその後でおとなしく待っていたら、後ろから来たワンボックスタイプのライトバン(たぶんトヨタのハイエース)が強引に我々の車の横から前へ出ようとした。これにはさすがに運転手も怒ってクラクションを鳴らしたが、全くお構いなしに前に割り込まれてしまった。見ると、その車の後ろには「旭冷麺」という漢字がしっかりと刻まれていた。つまり「セカンドハンド」である。こういう車はエチオピアではよく走っている。文字を消したりしないのである。「旭冷麺」の社長はまさかアフリカの異国の地で自分の会社の名前をつけた車が傍若無人に振る舞っているとは、つゆ知らないことであろう。